toransu1





トランスセクシュアル














わたしは、普通に恋愛をして、普通に結婚をして、普通に幸せな夫婦から生まれ

てきた、普通の「男の子」だった。

ただ、心と身体が一致しなかっただけ。

そんなわたしの、物語。







わたしがまだ5歳の頃、同じ幼稚園の男の子の間では、サッカーが流行っていた。

砂煙にまみれながらボールを蹴って走り、汗だくになって勝利を喜び合うスポーツ。

わたしはそれが苦手だった。しぶしぶサッカーに加わっても、転んだり人にぶつかった

りしてたので、他の男の子も、わたしをサッカーに誘ってはくれなくなった。わたしに

とってもその方が好都合で、乱暴な男の子たちと暑苦しいスポーツをするよりも、

大人しい女の子たちと、おままごとやアヤトリをして遊ぶ方が、断然楽しかったのだ。

わたしの友達は、主におっとりした優しい性格の女の子たちだった。

大人たちは「慎哉はナヨナヨしてて女みたいな奴だな。」と、わたしの事をよく笑った。

だが、母親だけはそんなわたしの事を異常に心配していた。

「この子は立派な大人になれるのかしら。」

と。いつの間にか、これが母の口癖になっていった。




小学校にあがると、男の子たちはますます乱暴な遊びをするようになった。女の子

たちは自然と、外でよく遊ぶ活発なグループと、教室で楽しくお喋りをする大人し

いグループに別れ始めた。わたしはやっぱり活発に遊ぶのは苦手なので、大人しい

グループの女の子に交じって楽しいお喋りをしていた。ある日、いつものように教室

でお喋りをしていると、一人の女の子が、おもむろに手提げバッグの中から綺麗な

千代紙を取り出し、それをリボンの形に折り始めた。そして折り終えるとそっとわたし

の頭に乗せ、形を指で整えると、

「慎哉くんって男の子なのに、リボンとか似合うよね。顔がかわいいから、スカートとか

履いても絶対似合うよ。」

と、微笑みながら綺麗な形に整えられたリボンから手を離した。周りの女の子も同

感だと言う。わたしは褒められて嬉しくなり、得意そうにリボンの位置を直したのを

覚えている。

今から思えば、あれがわたしのトランスベスタイトの始まりだったのだろう。

小学校高学年になると、わたしはお小遣いを貯めて、女物の服を買うようになった。

最初は母親のスカートをこっそりと借りて部屋で着てみるだけで満足できたのだが、

やはり今時の女の子が着ているようなかわいい服が着たくなり、一生懸命少ないお

小遣いを貯めていた。買った服はペラペラの安物だけど、私にとってはとても大切な

物だったので、母にバレないようにその当時大事にしていた鍵付きの玩具の金庫に

しまっておいた。服に満足すると、次は安い化粧品を購入した。化粧の仕方なんか

分からなかったので、テレビでよく見た化粧の仕方を、見様見真似で頑張ってみた。

でも上手くいく事は無く、最初は狸のような顔になってしまう事がほとんどだった。

その後、毎日化粧の勉強をし続けた私は、ぐんぐんと化粧が上達していったのだ。




中学2年生の時、わたしはきっとトランスジェンダーだったのだろう。心は女だった。

学校生活の方はというと、自分の身体の変化に戸惑いながらも、クラスのみんな

に負けないようにと、勉強だけは必死に頑張っていた。変わった事といえば、友達が

女子から男子になったということだ。流石にこの歳まで女の子と一緒に行動する訳

にもいかず、しぶしぶ男子の友達を作ったのだった。

でも、わたしの友達は文芸部の小説好きな男の子で、とても落ち着いた雰囲気だっ

たから、一緒にいて全然苦にならなかった。それどころかとても楽しかったのだ。いつ

も彼と一緒に行動した。彼の名前は誠一。時間が経つにつれ、誠一とわたしはなん

でも相談しあえる良き親友となっていった。

中学三年生になると、誠一は好きな女の子の話などをするようになった。わたしは

それを聞くと何故かとても辛くなり、うまく話を流して誠一にそれ以上喋らせないよう

にした。うつむくわたしの顔を覗き込んで、誠一は、

「慎哉って色っぺー女みたいな顔してるよな。お前が女だったら俺、付き合うのに。残

念。」

と、目を細めからかうように言った。わたしは心臓が一気に高鳴るのを感じた。恥ずか

しくて顔をあげられなかった。嬉しい反面、悲しい気持ちも有り、とても複雑だった。

誠一は女の子の事が好きなノーマルな男の子なんだ。分かってはいたものの、胸が

締め付けられる思いがして、息苦しさの中から、わたしは自分が誠一を好きなんだ

という事に気づいた。でもわたしの身体は男。誠一への恋をきっかけに、わたしは心と

身体の不一致に、本気で悩みを抱くようになった。その頃からわたしは、自分が性

同一性障害だという事を、はっきりと自覚し始めたのだ。その日から誠一に逢うのが

とても辛くなった。




やがて高校受験の時期も近づき、生徒たちの焦りも見え初め、塾に通うクラスメイト

も増えてきた。誠一も塾に通っていた。わたしはあれ以来誠一を避けている。だから

わたしは母に頼んで家庭教師をつけてもらった。塾に通うと、誠一に逢ってしまうから。

だからと行って遠い塾まで通うのも体力が持たないと考えたからだ。誠一の方は、急

に自分の事を避けるようになったわたしと何とか話をしたいらしく、よく声を掛けてきた。

でもわたしは、「勉強が忙しいから。」と言って、まったく取り合おうとはしなかった。そう

こうしているうちに、本格的に勉強しなくてはならない時期が到来し、クラスの空気は

ピリピリしていた。誠一もその中に紛れ、もうわたしの事を気にする余裕はなくなったよ

うに見えた。やがて嵐のように受験も終わり、みんなは落ち着いた学校生活を取り

戻していた。

そして、合格発表の日。生徒たちは掲示板の前に群がっていた。その中には誠一の

姿も有り、わたしは少し遠くでその姿をじっと見つめていた。誠一の緊張していた表情

が、急にホッとしたように緩んだのを見て、わたしの緊張もいっきにほぐれたのが分かった。

誠一は見事第一志望の高校に合格したらしい。わたしは、「おめでとう。」と小さく

呟いた。誠一の合格を確認し、立ち去ろうとするわたしに、誰かがふいに声をかけた。

少し笑みをうかべて、手を振ってかけよってくる誠一が見える。あぁ、わたしの大好き

な誠一の笑顔。一瞬目頭が熱くなったが、必死にこらえて笑顔で誠一と向き合った。

久しぶりに真近で見る、誠一のおだやかな一重の眼。周りでは、合格に喜ぶ生徒た

ちの歓喜の声が、溢れかえっている。わたしは、一瞬二人だけの時間が流れている

ように思えた。暖かな晴れの日差しが二人を照らし、わたしに誠一と一緒に過ごし

た日々を思い出させてくれた。誠一も同じ気持ちなのだろうか。一人そんなことを考

えていると、ずっと沈黙を守っていた誠一が口を開いた。

「もう、しばらく逢えないだろうからさ、今やっとこうして話できて何て言うか、嬉しいよ。」

照れたような口ぶりで、でも落ち着いて話す誠一は、わたしと眼を合わせるのが恥ず

かしいようだった。わたしも恥ずかしさから、少しうつむいて誠一と話を始めた。

「今まで、あんまり話しなくてごめんね。誠一のこと、嫌いになった訳じゃないからね。」

それだけ言うのが精一杯で、わたしは涙が出そうになって、更にうつむいた。

「慎哉、中学卒業したら働くんだって?あんなに勉強頑張ってたのに。」

何故、とでも言うような顔をして、誠一は言葉を詰まらせた。

「うん…。いろいろ考えた結果なんだ。」

何かを悟ったかのように誠一は、「そっか…。」とだけ言って、理由を聞くことなく、また

黙り込んでしまった。二人の無言の時間が流れる。きっとわたしが女だったら、二人は

今見つめ合う恋人同士だったのかもしれない。わたしが男だというだけで、好きな人に

好きと云う事もできないなんて。そう思った瞬間に、今まで溜まりに溜まったものが涙

となって一気に流れ出して頬を伝った。通りすぎる生徒たちが、わたしたち二人を見

てクスクスと笑う。泣きじゃくる男と、それを宥める男。周りから見ればこっけいな光景

だろう。それでも構わずわたしは泣き続けた。涙が枯れるまで。誠一は、日が沈むまで、

ずっとそばにいてくれた。




4月。わたしは実家の近くにある、小さな洋菓子店の工場で働くことになった。ここ

の従業員はほとんどが女性だったので、わたしはここを選んだ。もう二度と辛い恋

をしないように。だから高校に行くのも諦めた。傷付くのが怖いから。自分が弱い人

間だという事は充分承知している。それでもわたしはこの道を選んだんだ。

温厚な父はすんなり許してくれたが、心配性な母とは何度も衝突した。泣かれた

事もあった。それでもわたしは一生懸命母を説得し、やっとの思いで納得してもら

えたのだ。そこまでして決めた仕事。わたしは余計な事は考えず、仕事一筋で生

きて行く事を心に決めていた。




3年後の7月。梅雨も終わる頃、わたしはすっかり仕事場に慣れ、従業員たちとも気

を使わずに話ができるようになっていた。中でもわたしが特に仲良くなれたのは、こ

こに5年勤めている年上のお姉さんだった。年齢を聞いても教えてはくれないが、きっと

20代後半だろうと思う。なかなか綺麗な人で、明るくてパワフルで、よくわたしの面倒を

みてくれた。彼女の名前は千夏さん。彼女の母親が千尋という名で、母親の「千」と夏

生まれの「夏」を付けて「千夏」にという名になった、と彼女は聞いてもいないのに話してく

れた事があった。少し強引で厳しく、でも優しい千夏さんは、わたしにとってとても大事

なお姉さん的存在だ。他の従業員もみんな優しく親切で、わたしを息子のようだと言って

かわいがってくれた。わたしは、ある程度充実した幸せな毎日をおくっていた。

梅雨あがりの空は薄い灰色で、雨が降りそうな雰囲気が漂っている。いつもと同じように

店を閉め、掃除の為にわたしと千夏さんの二人だけが店に残っていた。薄暗い部屋の

中ホウキをもった千夏さんが、いつものように明るく話かけてきた。

「ねぇ、慎哉くんってさぁ彼女とかいないの?」

突然そんな事を聞かれて少し驚いたが、素直に恋人はいないという事を伝え、わたし

はまたもくもくと掃除を続けた。千夏さんは聞いてもいないのにまた話を続けた。

「あたしはねぇ、今二股の状態なの。いけないっていうのは分かってるんだけど。」

それを聞いて一瞬驚いたけれど、この人ならやりかねないと思い、あっけらかんとして話す

千夏さんに、少々わたしは呆れた。彼女は更に話を続けた。

「あたし、どっちも好きなんだよね。彼氏と彼女どっちもいるんだよ。羨ましいでしょ。」

満面の笑みで、彼女は言った。わたしは彼女が何を言っているのか分からなかった。

だが、しばらくしてやっと理解した。無言で少し驚いた様子でいるわたしを見て、彼女

はまた笑顔で話始めた。

「要するにね、慎哉くん分かると思うけど。バイなの、あたし。」

何のためらいも無い様子で、最高の笑顔を見せて千夏さんは言葉を放った。

バイセクシュアルだということよりも、簡単にわたしにカミングアウトしてしまう千夏さん

の堂々さに、わたしはかなりの驚きを感じた。黙り込むわたしに対し千夏さんは、想像も

していなかったとんでもない言葉を発した。

「慎哉くんさ、そうやって普通ぶってるけど、ホントは男の子の事が好きなんじゃない?」

その瞬間、わたしは胸を鈍器で叩きつけられる思いがした。どうして分かったのだろうか。

悟られる行動は何もしていないはずなのに。青ざめるわたしの顔を見て、彼女は静かに

微笑んで、続けた。

「隠してもダメよ。慎哉くんからは同じニオイがするもの。でも慎哉君はホモでは無い気

がするの。心は女の子だと思うんだ。図星?あたしと同じ、性の悩み。そのことで悩んで

悩んで、あたしは結局二人を愛する事で解決し、あなたはまだ悩んでる、普通に男と

して生きるか、性転換して女として生きるか。どう、違う?」

得意げな顔で、でも真面目な表情で言う千夏さんは、少し寂しげな眼をしていた。性

転換手術。わたしは女になりたいと願った事はあったが、性転換手術という具体的な

方法までは考えていなかったのだ。何より考える事が、怖かった。千夏さんにすべてを

見透かされ、裸にされたような気分だったわたしは、観念した様子で言った。

「僕は…、このままでいいんです。このまま良い人に囲まれて仕事をして、恋なんかしな

いで歳をとっていきたいんです。恋だなんて辛い想いをするより、こうして平和に毎日を

生きてる方が良い。」

なんとも弱々しく喋るわたしに、千夏さんは少し頭にきた様子で、

「そういう考えも有りだと思うけどさ、あたしは嫌だな。慎哉くん気づいてる?慎哉くんたま

にすごい寂しい顔してるんだよ。それ見てるとこっちがたまんないわよ。分かってるの?人

生一度きりなんだから。臆病になってたら何も出来ないわよ。あーあんたと話してると嫌

になるわ。掃除、後は宜しくね。じゃあね。臆病者さん。」

そう言い残すと、千夏さんは荒々しくホウキを片付けて帰ってしまった。呆然とするわたし

の頭の中に、彼女の欠点だけが残った。自分の考えが通らないとすぐに腹を立てること。

要するに、我儘な子供だ。わたしは少し頭にきたが、それでも落ち着いて千夏さんの

言葉を思い返していた。掃除をする気もすっかり無くなってしまい、わたしは家に帰る

準備を始めた。その間ずっと「性転換」「人生一度きり」という言葉が、頭の中をぐるぐる

とかけめぐっていた。わたしももう18歳。そろそろ人生の選択の時期なのかもしれない、

という想いが、不安と入り交じってじわじわと湧き上がってきていた。















あれ以来、何事も無かったかのように平然を装って職場に顔を出すわたしに呆れたのか

千夏さんはわたしと少し距離をおくようになった。

わたし自身、何も変える事のできない行動力の無い自分に苛立ちを感じていたし、辛

かったのだ。そして、ずっとモヤモヤした気持ちのまま毎日を過ごしていた。気がつく

と5年の月日が経っていた。

ただ仕事に行き、適当に両親とも会話を交わし、そして自分の性についてひたすら悩み

苛立つ毎日を繰り返していた。そんな生活を続けていたせいか、わたしは身体を壊した。

病院では過度のストレスによる急性胃潰瘍と診断され、余儀無く入院を強いられた。

何年ぶりだろう、一日中ベッドの上で過ごす、こんなにゆったりとした時間は。いつも

仕事におわれ、休みの日でさえ何かしら体を動かしていた日々だったから。何もするこ

とが無いと余計な事を考えてしまうから、という理由で。

案の定、わたしは誠一の事を考えてしまっていた。今でも瞼を閉じるとありありと思い

出せる、誠一の声、そして笑顔。どんなに時間が経っても、忘れることのできない誠一。

愛しい誠一。誠一…。

やはりわたしは諦めることができないのだと痛感した。忘れることの出来ない弱い自分

を、男のくせに最低だと、誰かに罵倒されたかった。いや、例え意識が無くなる程に殴

られたとしても、わたしは誠一を諦めることはきっと出来ないだろう。思えば思う程、

わたしの胸とそのすぐ下の器官が痛んだ。

ふと、あの言葉が頭に浮かぶ。

- 性転換手術 -

この方法だけは考えないようにしていた。頭で思うだけで、それだけですでに両親を裏

切っているのではないかと思っていたからだ。心配症の母親にこんな話を持ち出したら

ショックで倒れてしまうのではないかと、気が気ではなかった。口が裂けても性転換な

んて言葉は口に出せない。

涙をこらえ、胸がつまりそうになったその時、病室のドアを小さくノックする音が響い

た。わたしは溜まった涙を急いで拭い、返事をした。音もなくスッとドアが開く。両親

だった。

「思ったより元気そうだな。お見舞いついでに話があって来たんだ。」

かすれた声でそう言う父の手には、小さな白い花びらを沢山つけたかわいらしい花束が

握られている。なんという名の花だろう。わたしは少し気分が和らぐのを感じた。

父と母は静かにベッドの脇にあるイスに腰掛けた。

花に気を取られて気がつかなかったが、近くで見ると二人ともなんだか暗い表情をして

いる。そして母は決してわたしと目を合わせようとしない。疑問に思い始めたその時

その母がふと口を開いた。

「昨日の夜ね、父さんから聞いたんだけど。まさか、あんたに限ってそんなこと、信じ

たくないんだけどさ。でも父さんがそうなんじゃないかって言うから…。」

ごもごもと、言葉を濁すようにして少しずつ話す。いったい何を言いたいんだろう。

そんな母の肩を父がポンポンと軽く叩き、ゆっくり話はじめた。

「信哉、おまえ、女になりたいんだろう。」

- 女になりたいんだろう…。

まさか、父の口からこんな言葉が出るとは夢にも思っていなかったので、わたしはこの

現状を呑み込むのに少し時間がかかった。

ああ、知られてしまったのか。

頭の中で整理がついたとき、わたしは自分でも信じられないくらいに冷静で穏やかな気

持ちになっていた。なんだろう、本当はずっと知ってほしかった。でも知らせるなんて

ことは出来なかった。今、両親がわたしの秘密を知ったとき、もう嘘の自分を演じなく

ても済むんだという、そんな開放感を得たのだと思う。

「でも父さん、どうしてそれを?」

否定すること無くわたしは問い掛ける。もう何も嘘をつかなくていいのだから。

「やっぱりな。俺はお前の父親だ。お前を見ていれば判ることだよ。」

伏し目がちで話す父は、かなり辛そうな様子だった。

今までうすうす感じとっていたことが、たった今確信に変わったからであろう。わたし

はそんな父に向ってハッキリとした口調で言った。

「息子の様子が少しでもおかしいと、感ずいてしまうんだね。さすが、僕の親だ。そし

てきっと、今が父さんと母さんにカミングアウトするべき時だったんだよ。」

私は堂々と話す。開き直りにも近いのだろうか。

母は、ずっと下を向いて黙っている。膝の上で握り締めているこぶしが、かすかに震え

ていた。父が口を開いた。

「それで、お前はこれからどうしたいんだ。」

父の言葉で、母が少し反応したのがわかった。

「性転換手術をする。仕事も休んで少し家を空けることになるけど、貯金だってあるし

病院も調べてあるんだ。父さんたちには決して迷惑をかけないから -…」

「 - そんな事を言いたいんじゃないのよ!迷惑とか、そんなんじゃなくて。あたしは

お腹を痛めて男の子としてあんたを産んだのよ!あんたは男なの。男として最後まで生

きてほしいのよ。それが、あんたのあたしたちに対する親孝行ってものじゃないの!」

母がわたしの言葉を割って叫んだ。こんな、ものすごい形相で怒る母を見たのは初めて

だった。こぶしは大きく震え、目には涙を溜め、肩で呼吸をしていた。父が慌てて母を

なだめる。母は体が弱いから、あまり激しく怒ってはいけないのだ。

わたしは、ここで負けてはいけないと思った。ここで折れたら、一生弱い自分と決別す

る事は出来ないと。

「ぼくは、好きで男に生まれてきたんじゃないんだ。心の中は女だった。もうずっとず

っと前から。」

わたしの口調は穏やかだった。母を少しでも落ち着かせないといけないから。

床に泣き崩れる母の肩を抱きながら、父も穏やかに話した。

「信哉、父さんは賛成だ。もう、毎日毎日暗い顔をしてるお前を見たくないんだ。お前

の人生だ。好きに生きてほしい。」

父は、少し微笑んでいた。その隣で、母は声を殺して泣いていた。そんな母を見ると、

胸が締め付けられるようでとても苦しかった。わたしは、すぐに気の利いた言葉が出ず

心の中で、父に感謝をした。ありがとうと。

父は、ぬけがらのように力の抜けた母を抱き起こし、ゆっくりと廊下へと続く扉へ足を

運んだ。ゆっくり。ゆっくりと。

わたしは、できるだけ力を込めて母を呼んだ。母は立ち止まり、くしゃくしゃになった

顔をわたしに向ける。わたしは、深呼吸をした。深く。深く。そして、言い放った。



            「ぼくは、女なんだよ。」




…他人はきっと、なんてむごい台詞を吐く息子だ、と言うだろう。

この親不孝者、と詰るだろう。

それでも良い。わたしはこの選択で、母を捨てたのだ。

わたしは、女なんだもの。

その時のわたしの頭の中は真っ白だった。よく覚えていない。ただ、母の表情は少しも

変わらなかった。なんの変化も見せず、ゆっくりと目線を前へと戻し、そして廊下へと

出て行った。扉の閉まる音だけが、やけに大きく響いたのを覚えている。

ああ、とうとう言ったんだ。

わたしはそのまま眠りについた。









今朝は、やけに冷える。寒さで目を覚ますのは、今年に入って初めてのことだ。

白い息で手を温めながら、高鳴る鼓動を落ち着かせようとした。退院から一週間。

今日、わたしはタイ・バンコクへと旅立ち、半年間のホルモン療法と、男性器の切除

と女性器の形成を行いにいくのだ。身体がぶるぶるっと震えた。寒さのせいではない

きっと武者震いだろう。あれ以来、母はわたしと口をきかなくなった。食事の用意も

されていなかった。一週間、ずっとわたしを無視し続けている。父もわたしも、そん

な母に対して何も言わなかった。母をそんなふうにしたのはわたし自身だから。

時計を見ると、そろそろ空港に向かわなければならない時間になっている。重い荷物

を肩にかけ、片手にはスーツケースを持ち、わたしは立ち上がった。両親に最後の挨

拶をしに行く為に。わたしが男としてする最後の挨拶を。

リビングのソファーには、父と母が少し間隔を空けて座っていた。

「もう、行く時間か。」

父が名残惜しむように言った、案の定、母はうつむいたままだった。

「タクシーが待ってるからすぐ行くよ。たぶん、帰るのは来年の寒くなる頃だと思う。

父さん、僕の事、理解してくれてありがとう。母さん、…もう行くね。それじゃあ。」

わたしは、母の言葉を待った。母が何か、声をかけてくれるのではないかと、小さな

期待を抱いていたからだ。けれど、どんなに待っても、結局母が口を開くことは無かっ

た。父はわたしを外まで見送ってくれようとしたが、わたしはそれを断り、一言だけ

「母さんについていてあげて」

と、言った。

わたしが母にしてやれることと言ったら、この程度のことだからだ。

そう、それと、急だけど職場にも全てを伝えた。最初はみんな驚いていたり、戸惑いを

隠せないでいたけれど、最終的にはみんな理解してくれた。「待ってるよ。」とか「美

人になってきてね。」とか暖かいことばかり言ってくれた。中でも、千夏さんがニコニ

コしていて、とくに嬉しそうだった。

みんなが応援してくれている。期待に応えたいと心から思う。どんな苦痛にでも耐えよ

うと誓った。ただ、母の事だけが気掛かりだった。




そして、わたしはタイへと旅立った。




























2007年12月14日

薄暗くなり始めた東京の空には、ちらちらと粉雪が舞っている。深いブルーのキャン

パスに描かれたような儚く美しい雪。掌に舞い落ち、すっと溶け消えるそれを見て、

わたしは小さなため息を漏らす。毎年、ここの冬は変わらないわ。うっすらと雪が積

もり、白く染まっていく街を見渡しながら、わたしは真っ赤なパンプスで一歩を踏み

出した。ぽつぽつと店の明かりが付き、ネオンの輝く東京の街をゆっくり歩く。道行

く人々はわたしを見つめ、時には振り返ってうっとりしている男もいた。長身を活か

した細身の身体、黒のトレンチコートからスラっとのびた脚。輪郭に沿うように、斜

めにカットされたボブの茶色い髪。男も女も、誰もがほぅっとため息をもらすの、整

った美しい目鼻立ち。気がつく者は一人もいなかった。誰もがわたしを女だと信じこ

んだだろう。そう、わたしは身も心も本物の女になったのだ。





「お姉さんどこ行くの?」「夜のお仕事興味ない?」

そんな言葉を次々とやり過ごしながら、わたしは目的の場所へと急いだ。今日は、中

学校の同窓会がある。これのために、予定を合わせて帰国したのだ。だが急がないと

開始の時間に遅れてしまう。

すれ違う人々で、わたしが元男性だということに気がつく者は一人もいない。

誠一は、なんて言ってくれるかしら。綺麗になったと、褒めてくれるかしら。怖いも

のなんてもう何も無くなった。わくわくして、胸が張り裂けそうな気持ちでいっぱい

だった。とにかく、早く誠一に逢いたいという想いがわたしの足を速める。わたしの

頭の中は誠一で溢れかえっていた。

目的の店に到着する頃には、開始時間から30分が過ぎてしまっていた。わたしは、

高鳴る鼓動を落ち着かせようと、一度深く深呼吸をして、店の中へと足を運んだ。和

な雰囲気漂うお洒落なお店だ。

ところどころにオレンジ色の光を放つ丸い照明が置いてあり、それがわたしをやさし

い気持ちにさせてくれた。店員に店の奥の座敷へと案内される。近づく戸の障子に映

る複数の人影を見つめながら、誠一の反応を想像してわくわくした。

「こちらのお部屋でございます。」

店員の声にハッと我に帰る。目の前に広がった光景は、かすかに面影のある、懐かし

い顔、顔、顔…。そして、それと同時にその沢山の視線が、一斉にわたしへと向けら

れた。丁度、一人ひとり自己紹介をしていたときだったらしい。急に大勢の視線を浴

びて、わたしは頬が赤らんでいくのを感じた。タイミングの悪い時間に到着してしま

った。突き刺さる視線から少しでも早く逃れようと、空いてる座席に静かに腰をおろ

した。

「誰、あれ。」「あんな美人いたっけ?」そんな声があちこちからざわざわと聞こえ

てくる。

美人と言われ、恥ずかしいがとても良い気分になった。

ざわめきが落ち着いてきたのを見計らって、幹事は自己紹介を再開させた。わたしも

冷静さを取り戻し、お目当ての人を探してみた。端から端まで見渡すと、男友達数人

に囲まれて座る誠一の姿をみつけた。やっぱり、来ていたのね。

ああ、久しぶりに逢ったというのに、どうしてこんなにも冷静でいられるのだろう。

一目見た瞬間、涙で彼の顔が見えなくなることを覚悟していたのに、今は涙の一粒も

出ない。ただ、嬉しくて嬉しくて、遠くから誠一の姿をじっとみつめていた。誠一は

髪を茶色に染めていて、雰囲気もどことなく昔よりくだけた感じになっていた。調子

の良い男の子たちが、彼を自分らの輪の中の席に座らせたのだろう。誠一は、わたし

が居る場所とは程遠い席に落ち着いていた。誠一も、わたしが誰なのか、まだ気がつ

いていない様子だった。

自己紹介は順調に進み、その度に拍手がおきる。みんなはわたしに、拍手をくれるの

だろうか。

不安な気持ちを押し殺していると、ついに自分の番がきた。みんながまた一斉にわた

しを見つめた。早く誰なのか謎を解いてすっきりしたいというような目で。わたしは

その場に立ちあがって、堂々と言った。

「わたしは、橘信哉です。性転換手術を受けて、男性から女性に変わりました。心も

体も、立派な女性です。よろしく。」

早すぎでもなく、かと言ってゆっくりでもなく、丁度良いテンポで途切れることなく

わたしは自己紹介を言いきった。

こんな大勢の前でカミングアウトするなんて、勿論慣れていないことだから、緊張で

心臓が飛び出しそうだった。

シンと静まり返る空気と、驚きの表情で凝視する全員の視線が痛々しく、わたしは思

わず顔を伏せてしまった。誠一がどんな表情をしているのか確認する余裕すらなく、

わたしはその場に立ち尽くしていた。

ああ、やっぱり受け入れてもらえないのかしら。誠一に逢いたいという理由だけで、

他の事は何も予想せずにここに来てしまったことを後悔しはじめた。だが、そのとき

パン パン パンと乾いた音が3回響いた。驚いて顔をあげた次の瞬間から一斉に拍

手が沸き起こり、それと同時に「すごい」「よく言った」「綺麗になった」という声

が次々とわきあがった。思いもかけない反応で、わたしは少しとまどいつつも満面の

笑みでその沢山の拍手に応えた。嬉しかった。誠一が、笑顔で拍手をしている姿が目

に入ったから。良かった。受け入れてもらえた。誠一に。大好きな誠一に。

自己紹介が一通り終わり、再会の乾杯をきっかけに全員が雑談に入った。すぐにわた

しの周りには男女問わず人が集まり、

「いつからなの?」「ニューハーフのお店で働いてる?」「彼氏いるの?」

などと、まるで嵐のように質問された。一生懸命笑顔で答えるが、わたしは誠一と話

をしたくてたまらない。

遠くに見える彼は、男友達と一緒に、会話とお酒を楽しんでいる。あなたは、わたし

と話をしたくないの?

お酒片手に質問攻めをしてくる同級生を適当に相手しながら、わたしは不安に襲われ

ていた。もしかしたら、彼はもうわたしのことを友達とも思っていないのかもしれな

い、と。大勢の黒い影に囲まれるなか、誠一だけがカラーだった。

沈んだ気持ちで同級生たちと会話をする事に疲れを感じてきたわたしは、お手洗いに

行くと告げて、逃げるように部屋を出た。

廊下に出ると、にぎやかな部屋とは正反対で、心地よいBGMが流れている。丁度、誰も

歩いている人はいなく、さりげなく廊下の隅に置いてある照明のオレンジ色が、少し

だけわたしに癒しをあたえてくれるような気がした。

しばらくそのオレンジ色を眺めていると、背中側の障子がサァっと開いたのが分った。

誰かがトイレにでも立ったのだろうと、わたしは身体を避けて、道をあけようとした。

その人の顔が目に入る。

「あ。誠一。」

目の前の人は、誠一だった。わたしがこんなところに立っているなんて思ってもみな

かったのだろう。驚いた顔をしている。

でもそれは一瞬で、またすぐに昔のあの人なつっこい笑顔に戻った。懐かしい。ずっ

と見たかったよ、その笑顔を。

誠一も、きっとわたしと話をしたかったのだろう。

ああ、思えば永かったわ。中学のときからずっと好きで、それから先もずっとずっと

忘れられなくて。

そして今、女になった姿でようやく誠一と話をすることができるのね。

好きだと伝えよう。今のわたしなら、きっと言える。

わたしはもう昔の自分じゃないんだから。

わたしは口を開こうとする。だが、それより先に誠一が満面の笑みで言葉を放った。










「信哉は、全然変わってないな。」









空気が止まったのを感じた。




変わってないな…変わってないな…変ってないな………

わたしの頭のなかで、その言葉だけがこだましている。変わっていない?どういうこ

と?綺麗になったとは言ってくれないの?

誠一はニコニコとわたしを見ていた。本当に昔と何一つ変わらない笑顔で、まるで中

学の時の、男のままのわたしと話をしているような。

その笑顔を見て、そして、ようやく理解した。

誠一にとって、わたしは永遠に信哉のままなんだ。

どんなに綺麗になろうと、ましてや性別が変わろうと、ずっと友達の関係は変わらな

い。そんな、ちょっと考えれば分かるような当たり前なこと、わたしは10年も勘違

いし続けてきたんだ。

その時、わたしがどんな顔で誠一をみつめていたのか、自分でも分からない。

悲しい瞳でみつめていたか、もしかしたら少し笑っていたのかもしれない。そんなこ

とすら分からないほど、わたしは彼の言葉がショックだった。

誠一はそんなわたしの姿を見て、不思議そうな顔をしていた。

「俺、何かおかしなことでも言ったかな?」

きっとそう思っているんでしょうね。いいえあなたは、何一つ間違ったことは言って

いないわ。

わたしは無理に口角を引き上げ、誠一に一度だけニコリと微笑みかけた。そして、何

も言わずにその場から逃げるようにして走り去った。

呼び止めようとする彼を無視して、店を出た。夢中で走った。

わたしは、何を期待していたのだろう。女になれば、好きだと言ってもらえるとでも

思っていたのか。

馬鹿みたいに一人でわくわくしたり、ドキドキしたりして。

とめどなく涙があふれ出す。それをぬぐうことなくわたしは走り続ける。

チラチラと降りつづけていた雪は積もり、すべてを白で包み込んでいた。

走り続けてたどり着いた先は小さな公園。消えそうな蛍の光のように灯る電灯の下で、

わたしは立ち止まる。

上下する肩を落ち着かせ、嗚咽を必死で抑える。

わたしは、いったい何のために女になったのだろう。

誠一に好かれるためだけではない、わたしは女という性に憧れていたんじゃなかったの

か。

それがやっと、願いが叶って女になったんじゃないのか。

それなのに、どうしてこんなにもショックを受ける。

なぜ、胸が潰れて、息ができなくなるほど、苦しむ。

わたしはもう、わたしの気持ちさえも分からない。









「誠一。」









無意識のうちに、口から小さく毀れた名前。

やがてそれも白い息と共に雪の中に消えた。

わたしは、何もすることなく、その場に立ちつくしていた。

そして、ふと両親の顔が脳裏を過る。

そうだ。

わたしには帰る場所があるんだ。

父さんと母さんに、会わなければ。




また、新たな試練が待っている。



冷やされ、感覚の鈍くなった足は、それ以上に重たく感じられた。


わたしは、雪に埋もれていた真っ赤なパンプスを、やっとの思いで蹴り上げる。





新しい一歩を、踏み出すために。









雪は、少しもやむ気配など、無かった。




























  • back
    • 戸籍上の性 1997年から同センターで精神療法とホルモン療法を受けている。(半年)  手術は1回で、男性器の切除と女性器の形成を行う。これまで受けた女性ホルモンの投与によって、乳房は膨らんでいるため、豊胸手術は行わないという(一ヶ月)